松浦総合研究所

奇妙な記述てんこ盛りの東大博士論文を執筆した人は奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を審査し合格させた審査委員主査の東大教員も奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を放置し続けている東大も、これまた奇妙。世の中奇妙なことだらけ。松浦晋二郎。東京大学文学部社会学科卒業。同志社大学法科大学院卒業。法務博士号取得。行政書士試験合格。連絡先:ivishfk31@gmail.com

★千田有紀著・博士論文「『家』のメタ社会学」を読む(2)戸田貞三の「家族」の文言を「家庭」に書き換えて「脚注」までつけたうえ、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学術的意義があるかのように書く。千田博士論文81頁

《忙しい人はここだけ読んでください⇒》千田有紀は博士論文81頁において、戸田貞三の『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)116頁の原文の「家族」の文言を「家庭」に書き換えて「脚注」までつけたうえ、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学術的意義があるかのように書いた。

 

 

千田有紀武蔵大学教授)は博士論文の中で戸田貞三(東京帝国大学名誉教授・家族社会学者)の家族学説について次のように書いています(注1)。

 

【引用1】

戸田はたしかに「感情的な一体化」を実態視してしまっているが、「人々の生活内容が複雑になり、家庭外に諸種の社会関係が数多く構成されればされるほど、人々は内心の安定を得やすい家族生活に強い憧憬を感じつつあるとも考えられる」(戸田[1937a→1970:116-115〔ママ〕])といったゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、家族の単なる機能縮小といった学説と一線を画した、「家庭」への憧憬をあおる近代社会の分析をおこなってもいる。

 

【引用2】

ここで、家族の凝集性を述べるときには、「家庭」といい直されているのに、注意する必要があろう。

 

上記【引用2】は【引用1】に千田が付けた脚注です。脚注番号は46です。

 

千田は【引用1】の中の「人々の生活内容が複雑になり・・・とも考えられる」の部分について戸田貞三の著書『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)116-117頁から引用し、戸田が「家庭」という文言を用いている旨指摘しています。

その上で千田は戸田が「家庭」への憧憬をあおる近代社会の分析を行っている旨、記述しています。

千田はこの点に着目して【引用2】を書いた形になっています。

しかし、戸田の『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)116頁の原文では「家庭」の文言は存在せず、「家族」と書かれています。

つまり戸田の原文では「家族」の文言が書かれているのを、千田は博士論文の本文で「家庭」と書き換えた上、わざわざ脚注をつけて「「家庭」といい直されているのに、注意する必要があろう。」と書いて、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学術的意義があるかのように書いています。注2(注3)

以上のような千田の行為を、学者の世界ではなんと呼ぶのでしょうか?

またこのような行為は、千田氏のキャリアにどのような結果を招来するでしょうか?

 

 【注】

(注1)千田博士論文81頁。

(注2) 最低ラインとして、学術論文では客観的事実を正確に記述して欲しいものです。そもそも博士論文というものは人類の知的遺産たるに相応しい内容を有していると認められたからこそ学位授与機関から博士号が授与されるわけです。ところが戸田の著書の「家族」の文言を勝手に「家庭」に書き換えたうえ、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学問的意義があるかのように念を入れて注釈までつけて「注意する必要があろう」とまで書く、ということになると、もはや人類の知的遺産どころか、全く信用ができません。どうして東京大学はこのような論文に博士号を授与したのでしょうか?なんのための東京大学で、なんのための学問で、なんのための博士論文なのか、全く理解不能です。

 

(注3)

千田有紀著『女性学/男性学』(2009年、岩波書店)169頁において、千田氏は自分の大学院時代について次のように書いています(傍線部分):

 

大学院時代にお世話になった元指導教員の上野千鶴子先生。・・・『とくべつに指導はしない』と公言されている先生のもとで、本当に自由にやらせてもらいました。

 

千田は何を「本当に自由に」やらせてもらったのでしょうか?

 

【注意:本記事は千田有紀氏の博士論文に関して個人的見解・感想を述べたに過ぎず、千田氏に関して特定の断定的・否定的評価を下すものではありません。】