千田有紀は博士論文の中で戸田貞三の家族学説について次のように書いています(青字部分):
【千田の記述】
子に対する愛情があわられて育児の機能となるがごとく、親に対する愛着追慕の感情があらわれて祖先崇拝の行事となるものと考えられる。(注1)
しかしこの記述は、戸田貞三著『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)45頁の引用です。
上記【千田の記述】では「・・・育児の機能となるがごとく」、戸田の著書では「・・・育児の機能となるごとく」と書かれています。つまり【千田氏の記述】では戸田の原文に「が」が付け加えられているだけです。
また、上記【千田の記述】には戸田の著書からの引用である事実を示す注釈は付けられていませんし、かつ、引用であることを示す「」で括られてもいません。
上記【千田の記述】では「・・・と考えられる。」と記述しており、あたかも「考えた」主体が千田氏であるかのように書かれていますが、実際には「考えた」主体は戸田であって、千田ではありません。
以上のように、千田は、戸田の著書からの引用であるにもかかわらず、引用である旨を明記しないまま戸田の原文に「が」だけを付け加えて引用し、あたかも千田が書いた記述であるかのように書いています。
以上のような千田の行為を、学者の世界ではなんと呼ぶのでしょうか?(注2)
【注】
(注1)千田博士論文79頁。
(注2)千田有紀著『女性学/男性学』(2009年、岩波書店)169頁において、千田は自分の大学院時代について次のように書いています。「大学院時代にお世話になった元指導教員の上野千鶴子先生。・・・『とくべつに指導はしない』と公言されている先生のもとで、本当に自由にやらせてもらいました。」
千田は何を「本当に自由に」やらせてもらったのでしょうか?
【注意:本記事は千田有紀の博士論文に関して個人的見解・感想を述べたに過ぎず、千田に関して特定の断定的・否定的評価を下すものではありません。】