《本記事の問題意識》
千田有紀は博士論文注71において「山室周平」の記述を、「山室周平」の記述である旨明記せずに書くことによって、あたかも千田有紀のオリジナルの記述であるかのように書いている。 千田の行った当該行為は学術の世界では何と呼ばれるのだろうか?
千田有紀は博士論文132頁本文において
この核家族概念をめぐる論争は、核家族を「民主的」で「近代=普遍的」な価値として認めるか否かという論争である。《引用終》
と書いたうえで、注71において次のように書いています:
注71 「核家族」と「近代家族」の関連をのべるとすれば、グードは普遍的核家族一般から近代化された西欧におけるそれを「近代核家族」として区別し、小山もそれを受けて、「近代産業の発達とともにわが国でも家族の核分裂的傾向は当然期待されたところであり、そのことが社会がほぼ安定した今日において、漸く現われかかったと見るべきであろう」とのべている。ここでは「産業化=近代化」と考えられ、それが欧米と暗黙のうちに近代を表象/代表している。《引用終》
ところが山室周平著作集『家族学説史の研究』(家族問題研究会編、垣内出版、1987年)303頁にも同趣旨の記述があります。特に赤字部分はほとんど同一の記述です:
近代化、ないし西欧化との関連で、中野がマードックの「核家族」を「近代家族」と読みかえ、またグードが、普遍的な核家族一般から、近代化された西欧におけるそれを「近代核家族」として区別し、小山も「近代産業の発達とともにわが国でも家族の核分裂的傾向は当然期待されたところであり、そのことが社会がほぼ安定した今日において、漸く現われかかったと見るべきであろう」として、彼の意味での「核家族的」世帯の増加についてのべていることについては、前述のとおりである。
しかしながら、近代は少なくともヨーロッパにおいては、すでに長い歴史をもっている。現代はもはや近代ではないといわれるのも、けだし当然といえるであろう。もちろん、家族は他の諸制度の変化にたいして「遅滞」(cultural lag)する傾向がある(山室周平「家族における封建遺制検出のための諸前提」社会学評論、第一一号、昭・二七)にしても、近代家族を永遠の相に固定することなく、その推移を注意深く見まもる必要がある。《引用終》
以上要するに、千田有紀は博士論文注71において「山室周平」の記述を、「山室周平」の記述である旨明記せずに書くことによって、あたかも千田有紀のオリジナルの記述であるかのように書いています。千田有紀は、「核家族」と「近代家族」の関連をのべるとすれば、云々、と書いていますが、「核家族」と「近代家族」の関連を述べたのは「千田有紀」ではなく「山室周平」だったのです。
千田の行った当該行為は学術の世界では何と呼ばれるのでしょうか?
【注意:本記事は個人的見解・感想を述べたに過ぎず、特定個人または団体について特定の断定的・否定的評価を下し対世的に確定する趣旨ではありません。人によって物の見方、感じ方はさまざまです。】