松浦総合研究所

奇妙な記述てんこ盛りの東大博士論文を執筆した人は奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を審査し合格させた審査委員主査の東大教員も奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を放置し続けている東大も、これまた奇妙。世の中奇妙なことだらけ。松浦晋二郎。東京大学文学部社会学科卒業。同志社大学法科大学院卒業。法務博士号取得。行政書士試験合格。連絡先:ivishfk31@gmail.com

千田有紀著・博士論文「『家』のメタ社会学」を読む(18)「6-1-3森岡清美の家族変動論の変遷」(128-131頁)【1】森岡清美は核家族の普遍性を前提としていた?

1 本稿では千田博士論文「6-1-3森岡の家族変動論の変遷」(128-131頁)を検討します。

 

2 千田博士論文129頁には森岡清美の家族変動論の変遷に関する説明として次の記述があります:

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千田は森岡の説明図式が、

「日本的な家族である実体的な「家」から「現代家族」への移行という図式」

から

「いずれ夫婦家族制から直系家族制へ移行するであろうという図式」

へと変化した旨書いています。

しかし森岡清美は「いずれ夫婦家族制から直系家族制へ移行するであろう」とは書いていません。

千田有紀の上記記述は事実に反しています。

 

◎さらに細かいことを言えば、上記引用部分で千田は「イデオロギーのうえでは夫婦家族制から直系家族制の併存状態にあり」と書いていますが森岡は、夫婦家族制「から」直系家族制の併存状態、とは書いていません。千田の文章は日本語として意味不明です。森岡は1967年の時点で「現代は、伝統的な直系家族制と新しく公民権を獲得した夫婦家族制との併存状態にあり、」と書いています。つまり森岡は直系家族制「と」夫婦家族制との併存状態、と書いています。「から」とは書いていません。

 

3 千田博士論文130頁には次の記述があります:

 ◎(森岡の家族社会学では)「家族」の普遍性が、前提とされるがゆえに、「家」がその残余として「発見」されるようになるのである。

 

◎以上、森岡の家族類型論の変遷を見てきた。この森岡の著作における「家族」は欧米の「近代家族」像であるが、それは人類普遍の集団なのであって欧米、とくにアメリカの「家族」こそが普遍とされている。

 

◎欧米、特にアメリカこそが普遍であり、その地にみられる核家族や友愛家族が普遍であるとの欧米を普遍とする近代観によって、日本は、より「日本的典型」を持った特殊なものとしてえがきだされることとなる。(引用終)

 

上記記述において千田は

(1)森岡が「核家族・・・が普遍であるとの欧米を普遍とする近代観」を肯定していたこと、

及び、

(2)「核家族・・・が普遍であるとの欧米を普遍とする近代観」森岡が有していたことによって森岡日本を、より「日本的典型」を持った特殊なものとしてえがき出した旨の記述を行っています。

森岡が日本を、より『日本的典型』を持った特殊なものとしてえがき出した、

との千田の上記結論部分について千田は表現を変えて

「『家』がその残余として『発見』されるようになるのである。」

とも書いています。同一趣旨と思われます。

この千田の記述は正しいのでしょうか?

以下、検討してみます。

 

森岡は1972年の『社会学講座 第3巻 家族社会学』(東京大学出版会)において「第2章家族の形態と類型」を執筆しています。その中で森岡は家族の分析の基礎単位を「核家族」に求めたうえで(同書14頁)、核家族説に立脚して記述しています。森岡は「核家族を分析の基礎的単位とみる立場、つまり核家族説は核家族の普遍性を主張するものではない」と書いて核家族の普遍性を否定しています。 

森岡清美著『現代家族の社会学』(放送大学教材、1991年)、30頁にも同趣旨の記述があります。

 

従って森岡核家族・・・が普遍であるとの欧米を普遍とする近代観」に立脚していた旨の千田の上記記述は、1972年の森岡の上記記述に照らし、事実に反しています。

  

森岡核家族・・・が普遍であるとの欧米を普遍とする近代観」を有していない以上、森岡が当該近代観を有していたことによって

日本を、より「日本的典型」を持った特殊なものとして描き出した、

との千田の上記結論を導くこともできません。

千田の上記結論は事実に反しています。

 

千田の上記行為は学術の世界では何と呼ばれるのでしょうか?

 

  

【注意:本記事は個人的見解・感想を述べたに過ぎず、特定個人または団体について特定の断定的・否定的評価を下し対世的に確定する趣旨ではありません。人によって物の見方、感じ方はさまざまです。】