松浦総合研究所

奇妙な記述てんこ盛りの東大博士論文を執筆した人は奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を審査し合格させた審査委員主査の東大教員も奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を放置し続けている東大も、これまた奇妙。世の中奇妙なことだらけ。松浦晋二郎。東京大学文学部社会学科卒業。同志社大学法科大学院卒業。法務博士号取得。行政書士試験合格。連絡先:ivishfk31@gmail.com

千田有紀著・博士論文「『家』のメタ社会学」を読む(29)社会学者の摩訶不思議な論理:それを全否定しても、反省しても、距離をとっても「逆説的に」それに規定される。

社会学の世界では、ある特定の社会Xや人物Xが、ある特定の思想Aや考え方Aを、全否定したり、反省したり、当該特定の思想Aや考え方Aから距離をとった場合、その行為によって、(1)当該特定の社会Xや人物Xは、逆説的に、当該特定の思想Aや考え方Aに規定されている、と主張したり、(2)当該特定の社会Xや人物Xは、逆説的に、当該特定の思想Aや考え方Aをよりいっそう強固なものにした、とか、よりいっそう悪い思想Bや考え方Bを構築した、と主張する魔訶不思議な論理がしばしば用いられます。

 

以下では、社会学者・落合恵美子と千田有紀の著書論文の中から具体例を見てみましょう:

 

【1】だいたい、日本だけが特別だという発想は、丸山真男ら戦後知識人に責任があるのは間違いないが、その淵源は戦前の神国思想にまで遡れる。丸山らは、「神国日本」を全面否定しようとするあまり、「特別にダメな国・日本」という形で、神国の残像を残してしまった。わたしたちは今、その両方の「特別」の呪縛から解き放たれなくてはならない。

(落合恵美子『近代家族とフェミニズム勁草書房、1989年、278頁)

 

【2】・・・以上、「家」パラダイムの成立とその理論的な帰結を検討してきた。この「家」パラダイムは、戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めたものであった。しかしながら、このような日本への反省は、日本文化の説明変数としての「家」を遡及的に作り上げ、その問題設定の結果として、日本文化の「伝統」や「特殊性」を構築し、再び「日本」という「想像の共同体」の再構成に貢献してしまうという逆説を起こしてしまったのではないだろうか。

 

千田有紀『思想』No.898、1999年4月号「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」、岩波書店、97頁。)

 

 

【3】日本の理論形成は、欧米の理論と複雑な関係を取り結んできた。戦前、日本社会の性質をめぐって講座派と労農派のあいだでたたかわされた日本資本主義論争は、マルクス主義理論という欧米理論の日本への適用をめぐる論争であった。この政治から逃れることは難しい。有賀喜左衛門が、この日本資本主義論争から距離をとり、日常生活者の使う民俗語彙によって地主.小作関係を描き出す「第三の立場」をうちだしたことは、よくしられている。しかしこれも、「日本の独自の理論」を追求しているようにみえても、この政治から逃れてはいない。マルクス主義から距離をとるというかたちで、逆説的にそれに規定されている。

 

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、10頁)

 

【4】戦後日本は、戦争の原因を「家」を中心とする家族国家観にもとめ、「家」を廃止し、「『家』から『家族』へ」と民主化をめざした。しかし、「家」の廃止を強調し、日本社会や家族に残る「家」を探っていくことによって逆に、「家」の伝統を見いだしてしまうという逆説があったのではないのだろうか。「家」は「日本の近代」をめぐる問いかけであったが、国民国家の否定のために行われた真撃な反省は、強固な「想像の共同体」を創り出してしまったのではないだろうか。

 また同様の逆説は、「家族」に関しても存在する。近代における家族の抑圧、特に女性の抑圧の原因を「家」に見いだすことは、逆に民主的なfamilyである「家族」を称揚することにつながってしまった。抑圧の源泉を「家」にみいだし、「家族」を理想化し、称揚することによって、「近代家族」の抑圧性は問われることなく、家族の神話は生き延びたのではないだろうか。つまり、家族の民主化をめざして「家」を否定することにより、く近代家族>そのものがもつ抑圧性は問われることがないという逆説が、ここでもおこってしまったのではないだろうか。

 

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、13頁)

 

【5】このように戦争への反省のために想定された「家」パラダイムは、「家」を強固な存在として描きだし、「想像の共同体」(アンダーソン)をつくりだすという逆説がおこってしまった。

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、20頁)

 

【6】有賀喜左衛門が、この日本資本主義論争から距離をとり、日常生活者の使う民俗語彙によって小作慣行を描き出す「第三の立場」をうちだしたことは、よくしられている。ここでは、マルクス主義から距離をとるというかたちで、逆説的にそれに規定され、日本社会の性格を知るために、農村がまなざされている。

 

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、104頁)

 

【7】・・・つまりは、一度戦争にたいする反省がおこなわれ、「家」が廃止されたと考えられるがゆえに、「家」が「伝統」としてみいだされるのである。そこでは、戦後初期の戦争への反省が、「社会的想像体social imaginary」を創りあげるという逆説がおこっている

 

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、139頁)

 

【8】このように、「家」パラダイムの成立とその理論的な帰結を検討してきた。この「家」パラダイムは、戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めたものであった。しかしながら、このような日本への反省は、日本文化の説明変数としての「家」を遡及的に作り上げ、その問題設定の結果として、日本文化の「伝統」や「特殊性」を構築し、再び「日本」という「想像の共同体」の再構成に貢献してしまうという逆説をおこしてしまったのではないだろうか。

 

千田有紀 東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」2000.03.29、166頁)

 

 いかがでしょうか?

特に千田有紀の博士論文10頁の

有賀喜左衛門が、マルクス主義から距離をとるというかたちで、逆説的にそれに規定されている、

との上記文章は興味深いです。

この千田有紀の論理でいけば、フェミニズムだって、家父長制を否定するという形で、逆説的に、家父長制に規定されている、ということになってしまうのではないでしょうか。

 

《上記論理の検証》

ある特定の思想や考え方を全面否定しても、反省しても、距離をとっても「逆説的に」それに規定される、のではないだろうか、という上記論理(若しくは問題提起)の問題点としては、以下の点が挙げられます。

 

(問題点1)上記論理の一般的科学的妥当性そのものは論証されていないこと。

 逆説的に「規定される」といっても「規定」から生じる効果は具体的にはどのような効果なのか、また、どの程度に「規定」されるのか、といったことはなんら論証されていないので概念として不明確です。おそらくそのためであると思われますが、千田有紀の上記論文においても、しばしば、断定的表現を避けて、「~のではないだろうか。」と、疑問文もしくは問題提起の形で記述されています。

 

 

(問題点2)上記論理は日本社会の問題点を解決したり改善したりする具体的方法を示す論理ではないということ。つまり社会学者が上記論理を著書論文の中で展開して、「逆説が起こった」「逆説的に規定された」と必死で書いてみても、それ自体では具体的に日本社会の問題点は何も解決されないし改善もされないのです。別の言い方をすれば上記論理はたとえばある人物Xが頭から湯気を立てて「A」という思想なり見解なりを全力で否定している時に社会学者が出てきて「おまえは・・・すでに、Aの否定によってAに逆説的に規定されている」とまるで北斗の拳のようなセリフでもってXにいちゃもんをつけて、すでに頭から湯気を立てて「A」を全否定していたXをよりいっそう憤激させるための道具としては効果的に利用することができますが、上記論理にそれ以外の用途は存在しないように私には思われます。

 

(問題点3)ある特定の思想や考え方を全面否定しても、反省しても、距離をとっても「逆説的に」それに規定される、のではないだろうか、との上記論理は千田博士論文において具体的に何を解決し、何を帰結したのでしょうか?

 千田博士論文の本文は167頁までありますが、166頁後半からは「結語」が書かれており「結語」では千田が今後の課題を書いています。従って千田博士論文の本編としては166頁の「結語」直前で、事実上、終わっていることになります。この166頁本編最終部分に該当する部分が上記【8】です。

 この千田博士論文166頁本編最終部分【8】も「~のではないだろうか」という問題提起で締めくくられていることを各自ご確認ください。

 すると【4】において示されているとおり、千田博士論文の序盤で「~のではないだろうか」というフレーズを用いてなされた問題提起と同じ内容の問題提起が、博士論文の本編最終部分【8】においても繰り返されていることに気付きます。

 

【注意:本記事は個人的見解・感想を述べたに過ぎず、特定個人または団体について特定の断定的・否定的評価を下し対世的に確定する趣旨ではありません。人によって物の見方、感じ方はさまざまです。】