千田有紀は博士論文154頁以降、西川祐子氏の「家」について検討するにあたって次のように書いています(傍線部分):
次に西川の立論を検討しよう。西川は戦前を「家」/「家庭」の二重制度、そして戦後は「家庭」/「個人」の新二重制度と概念化する(西川[1996])ように、論全体が二項対立に基づいて理論化されている。例えば以下の文章を検討してみよう。
千田はこのように書いたうえで西川祐子氏の論文(注1 )を次のように引用しています(傍線部分):
日本の戦前家族はたしかに、「家|と「家庭」の両制度二重構造になっており、世帯としての核家族は、戸籍上の、傍系や直系を含む大家族の中に含まれていた。こうして「家」制度は、失業や倒産を親族で救済させ、経済恐慌や疎開、引揚げのときには帰村により困窮した人々を吸収した。「家庭」にはいわば安全装置としての「家」制度がついていて、遅れてきた近代国家であった戦前の日本はこの二重家族制を利用して社会保障の費用を節約、資本主義の追いつけ追い越せ競争に勝ち抜いてきたのであった(西川[1990:48-49])。
千田は上記引用に続けて、西川氏の論文の上記記述について次のように書いています:(傍線部分):
この「家」制度は、農村の家族である。「都市の家族」が、「家庭」であり、「近代家族」に対応するのに対し、「農村の家族」は、「家」と捉えられている。
しかし西川はこのようなことは書いていません。
千田の上記記述は事実に反しています。
この点、西川は論文(注2)45頁において次のように書いています(傍線部分):
このような戦時住宅が実際に量産される以前に、都市は空襲によって焼け野原になった。建物疎開による破壊もあった。都市の中程度の家、小さな家とお茶の間家族の多くがあっけなく壊れた。焼け出され、疎開によって都市を追われ、あるいは敗戦により植民地から引揚げてきた家族の多くが一時的にであれ、農村の大きな家や小さな家に受け入れられた。このときまでは、都市の中程度の家や小さな家は村とのつながりをすっかり切ってはいなかったのである。
つまり西川は、
都市の中程度の家や小さな家(とお茶の間家族)が、空襲によって焼け出され、疎開によって都市を追われ、あるいは敗戦により植民地から引揚げてきた家族の多くが一時的にであれ、農村の大きな家や小さな家に受け入れられた、
との趣旨を書いてはいますが、
千田の言うように
「家」制度は、農村の家族である。
とは書いていません。
また西川は千田の言うように
「都市の家族」が、「家庭」であり、「近代家族」に対応するのに対し、「農村の家族」は、「家」と捉えているわけでもありません。
むしろ西川は
都市の中程度の家、小さな家
との表現を用いており、都市にも「家」が存在していた事実を前提にしています。
以上から、やはり、千田の上記記述:
この「家」制度は、農村の家族である。「都市の家族」が、「家庭」であり、「近代家族」に対応するのに対し、「農村の家族」は、「家」と捉えられている。
は事実に反しています。
また上記引用部分において千田は、西川においては
論全体が二項対立に基づいて理論化されている。
と述べていますが、いかなる根拠に基づいて西川の「家」と「家庭」が「二項対立」である、と断定したのでしょうか?根拠が不明です。
千田博士論文ではしばしば「二項対立」という概念が用いられますが、千田は「二項対立」概念の定義を書いていませんので、どのような場合に「二項対立」の認定がなされるのか不明確です。 千田博士論文の真骨頂は、家族社会学において戦前には「二項対立」が存在しなかったが戦後に「二項対立」が登場した、この点の発見が千田博士論文の学問的業績の一つであるようです(注3)ので、そうであれば千田博士論文においては「二項対立」概念の定義がよりいっそう重要になるはずですが、残念ながら千田博士論文には「二項対立」概念の定義は存在しません。結果として千田博士論文では、根拠が不明確なままに、恣意的な「二項対立」認定がなされているように、私には思われます。
この点、千田博士論文6頁には次のような記述があります(傍線部分):
日本の「家」は、理想化された欧米の「近代家族」を理念型として、それとは正反対の性質をもつものとして構築されてきた理念型にすぎない。この「近代家族」が理想化されたもの、つまり神話にすぎないとわかった現在、「家」という概念自体もそのまま使用することはできないのではないか。つまり欧米の「近代家族」を理想化して、それと二項対立的に、正反対の性質をもつものとして構築されてきた「家」概念の構築のされかた自体を、問いなおさなくてはならない時期にきているのではないか。(6頁)
この千田の
二項対立的に、正反対の性質をもつものとして
との表現からは、少なくとも千田は「二項対立」を2つの概念が正反対の性質を有していること、と考えているようです。
これを西川の上記例で見れば、西川は、日本の戦前、家族は「家|と「家庭」の両制度二重構造になっていたと書いていますが、「家」と「家庭」の「二重構造」という事実だけでは、両者が正反対の性質を有している、ということはできませんので西川の「家」と「家庭」が「二項対立」であるとの結論を導くことはできないように思われます。
だからこそ千田は、
「農村の家族」は「家」制度、
「都市の家族」は「家庭」であり「近代家族」に対応する、
という西川が論文に書いていない事実を唐突に記述し、当該記述を前提に、
「家」と「家庭」を、
「農村の家族」VS.「都市の家族」
という正反対の、比較的わかりやすい「二項対立」概念に引き寄せて対比させ、西川の「家」と「家庭」が「二項対立」であるとの結論を導いているように、私には思われます。
しかし上述のとおり西川は論文の中でそもそも、
「農村の家族」は「家」制度、
「都市の家族」は「家庭」であり「近代家族」に対応する、
とは書いていませんので、千田の上記記述は「二項対立」の論証になっていないと思われます。
【注】
(注1)
西川祐子著「住まいの変遷と『家庭』の成立」、『日本女性生活史』第4巻、東京大学出版会、1990年。
(注2)
上記(注1)の論文である。
(注3)
千田有紀の「学位論文要旨」には千田博士論文における戦後の「家」と「家族(または家庭)」の「二項対立」発見の学問的意義が書かれています:
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=114893
千田博士論文では、家族社会学において戦前には「家」と「家族(または家庭)」の「二項対立」は存在しなかったが、戦後に「家」と「家族(または家庭)」の「二項対立」が登場した(形成された)事実を千田が発見した点に学術的意義があるとされています。
千田博士論文ではこの結論に合致するように記述がなされていますが千田はこの結論を導くための根拠となる事実の認定において相当無理をしているように思われます。
たとえば千田氏は
1951年時点の喜多野清一において「家」と「家族」は「二項対立を形成」していた、と書いています(下記記事参照):
http://hate5na7.hatenablog.com/entry/2018/03/28/190526
しかしその根拠が不明である(と私には思える)点に関してはすでに述べた通りです。
千田は西川祐子氏に関しても上記のとおり「家」と「家庭」が「二項対立」である旨書いています。
しかしその根拠が不明である(と私には思える)点に関しても上述の通りです。
千田は家族社会学において、
戦前⇒「二項対立」が存在しなかった
戦後⇒「二項対立」が形成された
との結論を導くための根拠となる事実の認定においてあまりにも強引な事実認定を行っているように、私には思われます。
【注意:本記事は個人的見解・感想を述べたに過ぎず、特定個人について特定の断定的・否定的評価を下し対世的に確定する趣旨ではありません。人によって物の見方、感じ方はさまざまです。】