さらに千田は『女性学/男性学』20頁において、フィリップ・アリエスの著書『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』の記述を紹介し、リンネをさらに悪人として描きました。すなわちアリエスは、『〈子供〉の誕生』の中で、そもそも「子ども」という概念自体、近代以前には存在しなかったこと、及び、子どもは近代以前、大人と変わることのない「小さな大人」として考えられ、特別な配慮が必要な存在ではなかったと考えられていたこと、を書いています。千田はフィリップ・アリエスの著書のこの記述を『女性学/男性学』に引用することによって、まるでリンネ本人も、乳児を、大人と何ら変わることのない「小さな大人」として考えて、乳児に対して特別な配慮を一切、行わなかった冷酷非情な人物であるかのような書き方を行いリンネを悪人として描きました。しかし実際にはリンネは、決して、乳児を大人と何ら変わることのない「小さな大人」として考えて、乳児に対して特別な配慮を一切行わないような、冷酷非情な人物ではありませんでした。上記のとおりリンネは乳母制度廃止運動に参加し多数の乳児の生命を救ったヒューマニズムあふれる人間でした 。上記フィリップ・アリエスの著書の記述からわかることは、近代以前のヨーロッパ社会では、子どもは大人と変わることのない「小さな大人」として考えられ、特別な配慮が必要な存在ではなかったと考えられていたという「過去の人々の行動パターン」や社会全体の「心性」が存在したという事実にずぎません(注2)。従ってフィリップ・アリエスの著書の上記記述を根拠に、リンネ本人が乳児を大人と何ら変わることのない「小さな大人」として考えて、乳児に対して特別な配慮は必要ないと考えていた、との事実まで認定することはできません(注3)。
そもそもわたしは、フィリップ・アリエスに魅了されて、歴史社会学を志した。歴史人口学が発見した過去の人々の行動パターンから「心性」を読み解くというアクロバティックな仕事には、方法的合理性があると思われた。過去の「心性」を想像することは難しい。しかし過去の人々が今日と明らかに異なる、特徴的な行動パターンをとっていたと分かれば、そこを糸口に「心性」を推察する道が拓ける。
(注4)千田有紀がカール・フォン・リンネの人物像を書き換えた本件事例を千田有紀社会学理論の適用、という観点から見れば、「言葉の亀裂」理論の適用の一つの具体例と評価することができます。「言葉の亀裂」理論についてはこちらの記事を参照して下さい。