松浦総合研究所

奇妙な記述てんこ盛りの東大博士論文を執筆した人は奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を審査し合格させた審査委員主査の東大教員も奇妙だし、その奇妙な東大博士論文を放置し続けている東大も、これまた奇妙。世の中奇妙なことだらけ。松浦晋二郎。東京大学文学部社会学科卒業。同志社大学法科大学院卒業。法務博士号取得。行政書士試験合格。連絡先:ivishfk31@gmail.com

千田有紀著・博士論文「『家』のメタ社会学」を読む(6)「家族」の民主化が戦後民法によって起こったと考えられていたが、そもそも新民法は、「家」「戸主」といった単語のレベルでの「民主化」がおこっていたにすぎなかった??125頁

千田有紀は博士論文において次のように書いています:

 

「家族」の民主化が戦後民法によって起こったと考えられていたが、そもそも新民法は、「家」「戸主」といった単語のレベルでの「民主化」がおこっていたにすぎなかった。(125頁)

 

上記記述と同趣旨の記述は千田の論文(千田岩波論文、千田博士論文、注1)を読んでいるとしばしば見かけます。

しかし明治民法から戦後民法への改正によって生じた「民主化」に関する千田の上記認識について私は非常に大きな大きな違和感があります。

以下は過去記事(注2)でも取り上げた例ですが、例えば旧民法(明治民法)第813条の規定は次のように定めていました:

 

夫婦の一方は左の場合に限り離婚の訴を提起することを得

 一 省略

 二 妻が姦通を為したるとき

 三 夫が姦淫罪に因りて刑に処せられたるとき

 (以下省略)

 

 このように、明治民法では、妻は姦通を行っただけで離婚原因になるのに対して、夫は姦通を行っても姦淫罪で刑に処せられないかぎり離婚原因になりませんでした。

 つまり夫と妻とで、男女不平等な法制度でした。

 戦後の新民法ではこのような男女不平等は法改正により撤廃されました。

 私は、戦後新民法のこのような改正は、法的レベルでの民主化であって、決して、千田の言うような「『家』『戸主』といった単語のレベルでの『民主化』」ではないと思いますが社会学者の認識は違うのでしょうか?

 もっとも、千田は上記引用個所の後で、「意外にも、家族システムそのものに対する変化をもたらした法改正は、・・・一般に思われているよりもずっと少ない」とも書いています。しかし、「家族システムそのものに対する変化をもたらした法改正」の数が多かったか、少なかったか、という多寡の問題ではなく、個人の尊重、男女の本質的平等、という価値観の根本的な変化があったか否かが重要です。新憲法によって、個人の尊重、男女の本質的平等、という価値観の根本的な変化が起こり、それに伴って、新民法によって上記法改正がなされたのである以上、家族システムにおいて法的レベルの民主化があった、と評価すべきです。
 
2 千田は上記引用個所の最初の部分では、戦後の新民法では、単語のレベルでの「民主化」が起こっていたにすぎなかった、と述べて、戦後の新民法における法的レベルでの「民主化」の動きが存在しなかった旨、断言しています。
 ところが千田氏は上記引用個所の後のほうでは、「意外にも、家族システムそのものに対する変化をもたらした法改正は、・・・一般に思われているよりもずっと少ない」と述べています。つまり家族システムそのものに対する変化をもたらした法改正は一般に思われているよりもずっと少ないが存在はしていた、との趣旨を述べて、法的レベルでの民主化の動きが存在した事実を申し訳程度に小さく評価して書いています。
上記2つの記述は矛盾しているように思われます。
この千田の思考回路はいったいなんなのでしょうか。
疑問は尽きません(注3)
 

 

(注)

(注1)「家」のメタ社会学 : 家族社会学における「日本近代」の構築。

千田には全く同一タイトルでありながら、「博士論文」と、「博士論文ではない論文」という、2つの異なる論文があります。博士論文ではない論文は岩波『思想』No.898号に所収されています。私が今回問題にしているのは千田の「博士論文」についてです。

当ブログ過去記事ですでに述べたように、当ブログでは上記2つの論文を区別するため、千田の博士論文を「千田博士論文」、岩波『思想』No.898号所収の、博士論文ではない論文を「千田岩波論文」と呼ぶことにしています。

◎「単語のレベルでの民主化」というフレーズは千田岩波論文80頁にもあります。繰り返し書いているところを見ると、千田は確信をもって書いているように思われます。

◎「千田博士論文」の「内容要旨」はこちらで公開されています: http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=114893

 

(注2)

★★★千田有紀著、岩波『思想』No898・1999年4月号所収「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」に関する松浦晋二郎の質問【2】 明治民法は今日考えられている以上に、個人主義的な法制度だった??(甲第11号証関連) - 松浦晋二郎ブログ

(注3)

千田とは異なり、社会学者の中には論理的説明を行う社会学者も存在します。

たとえば牟田和恵教授の論文:

家族の社会史から家族社会学へ――アプローチの統合をめざして――
55頁には次の記述がある:

日本の場合、戦後の民主化は確かに法的にはじめて個人の「家」からの自由を保証した点で家族変動の重要な契機であると思われるが、それは唯一の分岐点ではなく、家族の親密さや情緒性といった家族意識においては連続性も認められる。

つまり牟田教授は

(1)「戦後の民主化」が「法的」民主化である事実を前提に、

(2)戦後の当該「法的」民主化が個人の「家」からの自由を保証し家族変動の重要な契機となったこと、

(3)その一方で家族の親密さや情緒性といった家族意識における連続性が認められること、

と記述しています。

上記記述は、戦後の民主化による法的な家族変動(=法的レベル)と、それとは区別される家族意識の連続性(=法的レベルとは区別される事実レベル)、という、レベルの異なる2側面が意識的に区別して記述されている点で論理的説明になっています。この点で牟田教授は千田とは異なります。

 

 

 

【注意:本記事は個人的見解・感想を述べたに過ぎず、特定個人または団体について特定の断定的・否定的評価を下し対世的に確定する趣旨ではありません。人によって物の見方、感じ方はさまざまです。】